人気ブログランキング | 話題のタグを見る

くりかえすなみ・ながれる雲・しあわせなたべもの


by shuwachoco
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
「若者のすべて」の切なさ・・_f0220890_18525668.jpg


「若者のすべて」の切なさ・・_f0220890_1852381.jpg


「若者のすべて」の切なさ・・_f0220890_18533125.jpg



「若者のすべて」の切なさ・・_f0220890_1853534.jpg


《若者のすべて》
       野村

あらすじ
 1960年イタリア・フランス合作。イタリア映画界の巨匠、ルキノ・ヴィスコンティ監督の中期の傑作と言われる。イタリア南部の貧しい地帯から工業地帯として発展途中であったミラノへ移住する家族の物語である。父親が死に故郷に見切りを付けた一家はミラノで仕事をしている長男を頼って北に向う。ミラノ駅に降り立った母と4人の弟たちを迎えに来ているはずの長男はいない。不安を抱えたまま長男の家を探す姿は一家の未来を象徴するかのようである。自分の暮らしに精一杯の長男に頼ることもならず、仕事も見つからず家族は身体を寄せあいながら暮らし始める。ボクシングに活路を見いだす二男シモーヌとまじめにクリーニング店で働く三男ロッコの歯車が一人の女性を巡り狂い始める。四男は苦学して学び花形産業である自動車製造の仕事につく。五男は兄たちを透明な目で見通し時代の行く末を感じさせる。母と5人の兄弟の物語はイタリアらしい大家族主義が壊れていく時代の推移を映す叙事詩となった。
 三男ロッコをアラン・ドロン、2人に翻弄されるナディアをアニー・ジラルド、長男の妻をクラウディア・カルディナーレが演じている。ヴィスコンティ映画の常連たちが若く美しい姿を見せて懐かしい。
 ヴェネツィア国際映画祭特別賞受賞。全編モノクロの画面が時代の暗さと閉塞感を感じさせる。
アラン・ドロンの美貌と才能
 原題が「ロッコとその兄弟」とあるように、アラン・ドロン演じる三男ロッコを軸に話しは展開する。アニー・ジラルド演じる娼婦ナディアを愛してしまうシモーヌとロッコ。女性に溺れ退廃的になっていくシモーヌに変わり家族を支えるのがロッコである。いつか故郷に帰る時を願いながら生きるロッコは家族思いで自分を犠牲にする事も厭わない神のような存在として描かれる。その純粋さは時として普通の人間の敵意を買う。無垢で疑う事を知らないロッコを演じるアラン・ドロンのやわらかな表情はたぐいまれな美貌と相まって超越した存在に見える。
 ロッコは兵役につき、そこでナディアに出会う。娼婦であったナディアはシモーヌと暮らしていたときに得られなかった幸福感を純真無垢の象徴のようなロッコに見いだし真実の愛に目覚める。しかしそれは更なる悲劇の幕開けであった。
 この年ドロンはルネ・クレマン監督で「太陽がいっぱい」を撮っている。貧しさから脱出するため殺人を犯す青年とすべてを許すロッコを、時を同じくして演じた若き日のドロンの豊かな才能を感じる。

兄弟の対立とナディア 
 ナディアを巡ってシモーヌは取り替えしのつかない事件を起こす。兄と弟の壮絶ともいえる殴り合いに憎しみではなく、お互いへの痛いほどの愛情が見える。心ならずも故郷を離れ不本意に生きる現実の中で、道を違えてしまった兄弟がお互いに叫ぶようだった。そこに女性の入り込む隙間はなく、一人疎外され、すべてをなくしたナディアがいるだけだった。
 ミラノの大寺院ドゥオーモの屋上でナディアとロッコの別れのシーンが撮られる。ロッコはナディアにシモーヌには君が必要だからシモーヌと一緒になるようにと切り出す。誰も立ち入ることのできない深い愛でむすばれた兄弟の絆に言葉を失うナディア。背中に絶望を背負いながら遠く歩くシーンの遠景に映る大きな教会。その前の広場に集まる無数の市民にまぎれるように歩くナディアの後ろに教会の尖塔が見える。人ごみの中の小さな背中が画面の中で強烈に主張する。画面一杯に広がる孤独を初めてこの映画を観た時から忘れない。まだ名前も知らなかったアニージラルドはその存在感から忘れられない女優となった。この映画で共演したレナート・サルバトーリと結婚し、2011年に亡くなるまで100本の映画に出演したフランスの名女優である。

 また、別れのシーンで見える教会は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の先祖が造った教会である。由緒ある貴族出身の監督は貴族が領主として土地や住民を支配する時代から市民が実権を持つ社会への転換期をこの映画に現したかったのだろうか
犠牲となる女性たち
 ロッコに捨てられ、シモーヌとよりを戻したナディアは以前よりも一層退廃的に日を送る。そのシモーヌにも愛想を尽かし以前の娼婦に戻った彼女にシモーヌが関係を迫るシーンがこの写真。まるで磔にされるキリストのようである。原稿を書くにあたって写真を探してこのシーンを思いだした。家族主義を守り兄弟の愛を守るために必要な犠牲、それが女であった。キリスト教の教えにある、男を堕落させる娼婦の女を罰する必要性があったのだ。しかし女性の再生を許さない時代に作られたこの映画はその社会の限界をシモーヌの堕落と家庭の崩壊という形で告発しているようだ。
 イタリアは母親が中心の家族主義の国。バロンディ家もまた母親を中心に家族が身を寄せあい生きる姿が映画では描かれる。母親もまた働き詰めで厳しい暮らしを支える。希望をかけた子どもたちは夫々の道を往く。しかし、この殺人の後、家庭は崩壊し家族はバラバラに生きる事になる。四男は殺人を犯した兄を警察に通報し、弟は故郷に戻る日を胸に、歩き始める。
 
# by shuwachoco | 2014-06-08 18:58 | 映画